ヨブ記、そして VBTJ
今、神学生なので、せっせとレポートを学校に送っています。一年前に自分で書いたものですが、
今日、兼松先生に添削されて返ってきて、読み返し、その自分のレポートに励まされてしまいました。
ヨブ記なのですが;
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ヨブ記の理解を困難にしている一因は、そもそもヨブが限りなく潔白な人物であった事が例外的で、
現実の社会に住んでいる私たちは彼の個別具体的な状況にそのまま適用する事ができない事にある。
彼は社会的な罪に関しては義とされたが、神に対する高慢の罪には義とされなかった。
それでも彼は身体を打たれるまで高慢の罪さえ出てこなかった人物である。
一方、私たちは神にあらがう高慢の罪はもちろんとして、社会的にも罪人である。
その私たちから見ると3人の友の主張は正しく思えるからである。
エリフは苦難・苦悩は神の訓練であるという。もしかしたらそれが神の意志に近いのかもしれないが、
神に全ての主権を認めるのであれば、それさえも確かな事ではない。
私が苦しんだとして;
(1)意味も無く死ぬのかもしれない
(2)神の御用に用いられるための訓練なのかもしれない
(3)ヨハネ9章の盲人のように主の栄光が現れるためなのかもしれない
(4)生き続けていく事が私が用いられるためではなく後の子孫が神に用いられるためかもしれない。
(5)サタンかもしれない
(6)退けられた3人の友の主張のように、私が神から罰せられるためかもしれない
*ヨブのケースでは違ったが。
分からない事は分からないと認める謙虚さが大切である。
私たちは多くの場合で “知ったかぶり” をする。また、“他人に教えよう”とする。
しかし、結局、苦難苦悩の原因は分からないのである。分からないという事が心底分かれば
悪い事象の背後にある原因を突き詰めようとする私たちの“姿勢”を正す事ができる。
善なるヨブにしても、神に対する姿勢によって、神の前で善なる者にはなれなかった。
弱い身体を持つ人間は、高慢の罪をも克服するような存在にはなりえない。
私たちは苦難や苦悩の原因を問うてはならない。いかなる結果をも受け入れなければならない。
また逆に、いかなる結果をも受け入れるのであれば苦難や苦悩の原因を問う必要はない。
神が原因を与え、また、結果も与えているのだ。
神が介在せずに原因があって自動的に何らかの結果が生まれるという因果応報の考え方は
結果に対する神の主権を侵害しているので聖書的ではないと私は考える。
講義の中で指摘があったがガラテヤ6:7も“神は侮られる方ではありません”と書かれている。
結果を支配しているのは、やはり神である。因果は“自動的”には決まらないのだ。
ヨブ記に登場した計5人の人間は全員“原因”についての議論をしたが、
神は創造なされたもの(結果)を示す事で人間の限界を示された。
私たちの関心事は“原因を分かって正す事だろうか?”それとも“救われる事”だろうか?
前者は全て自己義認への道である。
とりなす方、贖う方、仲介者として登場するイエス様の影を見る事で、そして
“結果を神にゆだねる事で”、私たちは救いを得る事ができるのである。
救いこそが大事なのだ。
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極論で未熟なのかもしれないけれども、
VBTJはそういうミッションでありたいと思っています。